「まにあ」  朝早くに東京湾の埋め立て地へ車を走らせ、最近整備された海浜公園 へと向かった。  駐車場に車を乗り入れると、そこは既に先客の車が整然と留っていた …  「満車」かと、諦めつつ取り敢えず駐車場を一周してみる事にした。 そして、辛うじて隅の方に開いている場所を見つけ、そこに駐車した。  トランクの中からロッド・ケース(釣り竿を入れるケース)とアイス ボックスを取り出し肩に掛け、両手に折り畳み椅子やらナップ・ザック ぶら下げた。  重い荷物を担ぎ、よたよたと海辺に歩いて行ったが、そこには既にま るで竹林と見違えるような竿の乱立状態…  格好のポイント(つり場)は、みな既に先客に占拠されていた。  ここでも、駐車場同様に開いている所を探してよたよたと歩き回る。  そしてようやく、海浜公園の隅の方に開いている場所を見つけた。  早速、店をひろげ準備をする。  竿はリール(釣り糸を巻き取る道具,これがあると竿の長さ以上に仕 掛けを遠くに飛ばせる)付きのを5本,リール無しのを3本持ってきた が、このスペースでは、リール付き3本が限界のようだ。  リール付きの竿を長・中・短と用意し、それぞれ仕掛け(魚を取る仕 掛け,釣り針と重りで構成されている)と餌を付けて短い方から順番に 仕掛けを海に投げ入れた。  あとは、獲物が餌にくらい付き、竿の先に付けた鈴を鳴らすまで、の んびりしていれば良い。  折り畳み椅子を広げ、静かに腰を降ろして周りを見ると、他の人のあ たり(魚がかかる事)は、まずまずのようであった。  ポットに入れて来たお茶を飲みながら、リール無しの竿に仕掛けをと 餌を付けて、足元の海に入れる。  こちらは、ウキ釣り(仕掛けにウキが付いていて餌を海中に浮かせる, またウキが沈むと魚がかかった事を知らせる事になる)だから、ウキを 見ていなければならない、しかし、こちらは言わば余興みたいな物だか ら、ウキそっちのけで、他人のあたりを気にしていた。  「どうです?」 と、隣にいる家族連れらしい人に聞く。  「いや、なかなか…さっきから、小物ばかりで…」 と言って、腰を降ろしていたアイスボックスを開けて見せてくれた。  「ほーぉ、サヨリですか…あと、小アジ…」  「ええ、日の出前からいるのですが、いいのがこなくて…」 と、旦那の横に座って子供を抱いていた奥さんが笑って言った。  「ボラはあんなに跳ねるほどいるのに…」  見ると、ボラが数匹海面から飛び上がっているのが見えた。  隣の家族連れに交じってそのまた隣の老夫婦も入って来て会話が盛り 上がった。  その途中で、”チリンチリン…チリンチリン…・”と、鈴の音が…振 り返って見ると、中の竿に獲物が掛かったようである。とっさに竿に駆 け寄り、竿を構えた。  「せいの…おりゃ!」 と勢いを付けて竿を立てた(竿を地面と垂直にする事)。  その途端、手にかすかな感触を感じた。  (きたっ!)  私は竿をゆっくり寝かせる(竿を地面と平行にする事)ながら、リー ルで釣り糸を巻取って行った。  掛かったのは引きの割には小物のさよりであった。  さよりの下顎は鋭い針状になっている、それに注意して針を外し、再 び餌をつけまた海に仕掛けを投げ入れた。  こうして、2時間ほど経ったが、あたりは先ほどのさより1匹であっ た…  尿意を催し、トイレに駆け込んで一息入れて戻ってくると、中年程の 男が私の竿を覗き込んでいた。  私が竿の所に戻り、椅子に座るとその中年男は早速話しかけてきた。  「どうです?」 と、訪ねられたので私は気さくに  「いや、これ一匹です」 と、アイスボックスを開いて2時間前に釣り上げたさよりを見せた。  「ほぅ…」 と中年男は不思議そうな声をあげた。  この中年男は一見して人のよさそうな細目で目尻が下がった四角い顔 をしていた。ずんぐりとした格好で見た目に狸みたいな感じがした。  「それにしても、いい竿を使っていらっしゃる。これはいいヘラ竿 (へらブナという種類のフナを釣る専用の竿)ですよ、こんなところで 使うのはもったいないですよ…それに、このリールも特注品と見ました が、いい値段がするのでしょうねぇ…」 と言った。  確かに、私の持っている浮き釣り用の竿の全部は、かつて川漁師だっ た祖父の遺品である。祖父は自分の使う竿を近所に住む有名な竿師に作 らせていたことも知っている。でも、いい竿は祖父が死んだときの形見 分けで全部叔父に持って行かれて、私には余った竿しか貰えなかったと 記憶している。  「へぇ、そんなにいい物ですか…」  「そぅりゃもう、この竿は今は無き埼玉の一級竿師**の一品で、売 れば百万を下らない代物だし、このリールは、有名釣り道具の会社が作 ったすべて手作りの限定品ですよ。兄さん、これらをいったいどうやっ て手に入れたんですか?」  中年男の百万の声に両隣に居た家族連れと老夫婦を始め、周囲の人が 色めき立った。  周りの人の薦めもあって、私は、竿とリールの由来を話した。  「この竿は、祖父の形見です。物がどういう代物か知りませんが、 『使わなきゃ道具ではない』と言う祖父の教えに従って使っています。 このリールは、叔父が取引先の会社の記念品として貰ってきた物です。 何個か戴いてきたので、私と従兄弟達が使っています」 と、私が言うと間髪入れずに中年男が  「そりゃもったいない…ちゃんと箱に入れて飾っておけばもっと値が 上がるでしょうに…なんなら、私が貴方から譲って貰って大切に保管し ますよ」  「竿や道具の手入れの仕方は祖父から仕込まれていますので、ご心配 なく」 と言ったが、中年男はなかなか引き下がらなかった…あまりに「売れ売 れ」としつこいので、我慢できなくなり、  「この竿は私の祖父の形見です。絶対に売る気にはなりません!!」 と怒鳴り声をあげた。 その言葉に驚いて中年男はすごすごと引き上げていったが、釣りをやめ て駐車場に行くと、中年男は待ちかまえていた。  「その竿とリール売って下さいよぅ…」  私はその変に下心のあるような言葉に嫌気がさし、道具をトランクに 放り込むと、縋るように「売れ売れ」と言う中年男を無視して車に乗り 込み発進した。  それから、私が海浜公園に行く度に中年男はどこからともなく現れて は、私に竿とリールを売れと行ってきた…あまりにうるさいので、周り の人が迷惑がって私はこの海浜公園には行きづらくなった。でも、この 付近で車を止めてのんびりと釣りを楽しむところは辺りにないので、釣 りキチの私は行かないわけには行かないので、暫く海浜公園には行かな いことに決めた。  暫くおいて、もう来ないだろうとたかをくくって行くと、中年男が駐 車場で待ちかまえているので、その場で引き返し、また数日おいて海浜 公園に出かけては、またその場で引き返すと言うことがしばしばあった …  ある日、中年男が居ないのを見計らって釣り糸をたれていると、たま たま隣にいた人がこの中年男の事を知っていると言うので聞いてみた。  「ああ…あいつの事を知っているよ、あいつはかなりの釣りキチ…い や、あいつの場合は釣り道具キチがいと言った方がいいかな…昔は俺達 同様に釣ることを楽しんでいたのだが、ある日骨董屋で一級銘竿(すば らしい竿のこと)を安く手に入れてから、狂ったように釣り道具収集に 走ってね、自分が目を付けた道具はその人が譲ると言うまでしつこく付 きまとって、『スッポンの三郎』と言われるまでに迷惑がられて居るん だよ」  それを聞いて以来、海浜公園に行かなくなったが、半年ほどしてどこ をどう聞き出したのか、『スッポンの三郎』は私の家に押し掛けてきた。  「あの竿を海釣りに使うくらいですから、もっといい竿をお持ちでし ょうねぇ…ちょっと見せて下さいよぅ」 と、言って家に上がり込もうとするので、それを押しとどめ帰って貰っ た。  以来、毎日のように押し掛けてくるので、同居している母がヒステリー になってしまい、それにうんざりして一度警察を呼んで連れいって貰っ たが、今度は家の前で待ちかまえるようになった。  警察に電話しても、「なにもしていないので、どうしようもない」と 言われ、ただ家の周辺のパトロールを強化して貰う以外になかった…  そうしたある日、家が火事になった。後で判ったことだが、原因は漏 電とのことである。  慌てて燃えさかる家から飛び出す私達の横を何かが横切ったかと思う と、燃えさかる家に飛び込んでいった…  消防隊員が何かを叫びながら消火ホースを持って続いていった。  暫くして、消防隊員に両脇を抱えられて一人の人間らしい物が出てき た。  私がそれが誰であるかはすぐに気が付かなかった…家の者は私と一緒 に避難して無事だった。  それは私を見つけると、両脇の消防隊員を振り払い、全身焼けこげて 所々まだ火がついてる服を着て、それは私の前に来た。  そして、黒く焼けこげた棒と箱を私の前に出して、  「これ、もういらないでしょぅ…私に下さいよぅ…」 と言って、その場に前のめりに倒れ込んだ。  …それは、燃えさかる私の家に飛び込んで、私の祖父の形見である釣 り竿と、叔父から貰ったリールを手にした『スッポンの三郎』の変わり 果てた姿であった… 藤次郎正秀